この写真も、1週間ぐらい前に、近所の里山を散歩している時に、何気に撮っていた写真のうちの1枚である。
葉の大きさや形と、茎の所々から出た棘の存在を見ると、ノイバラと思う。
以下に、今度は、ノイバラの実と思われる写真を載せておく。
本当の事を言うと、この写真を撮った時には、この赤い実をサルトリイバラの実と思っていた。しかし、後日、娘が小学校でのリース作りに、色々な木の実を持って行きたいと言う事で、2人でこの木の実を家に採ってきた。
そして、観察した時に、写真では分かりづらいが、実は球形ではなく、太った米粒のような卵型である事に目が止まった………そしてノイバラの実かと分かった次第である。(サルトリイバラの実は、ネット上の果実の写真を見ると、球形に近い気がする。)
さてさて、茨城県人として、このいばらに意識や思い入れを持っている人がどれだけいるのであろうか?
遠い昔の各地の人々の生活を紹介した風土記という書物の中に、この場合は常陸風土記であるが、このイバラと思しきものが登場してくる。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を中心とした西からの大陸色の強い支配層の勢力が、常陸の国(現茨城県)にも及んで来た時、もちろん古来からの縄文系の土着の人達が茨城には住んでいた。文明文化の進んだ大和朝廷からすると、その土着の民達は、少し民度が劣っているように見えたのかもしれない。常陸風土記の中では、そうした茨城の土着の人達のことをサイキ(つくば市には妻木という地名がある)と呼び、彼らの穴(縄文人特有の縦穴かと私は類推する)に暮らす風習と、狩猟採集のような生活スタイルが紹介されている。そして、西からの大和朝廷の新興勢力は、食料を盗むという彼らサイキの風習に違和感を感じて頭悩ませたのが伺える。結果、サイキの昼間は穴に戻らないという習性を利用して、昼間の間に、サイキの住居としてる穴の底部に、棘の有るイバラのツタを敷き詰めてやったという記述があるのである。
茨城のイバラが指すものが、ノイバラなのかサルトリイバラなのか、はたまたそれらのミックスなのか分からないが、地名が暗示しているものを、空想したり、読み解く力。人間が忘れてはならない好奇心という重要な能力のひとつの気がする。